――翌朝7時 いつものように千尋は台所に立ち、お弁当の準備をしている。今日は遅番の日なので、普段よりは朝が遅めである。冷凍焼きおにぎりをレンジで解凍し、アスパラと人参を茹でてる間に卵を手早く溶き、水・めんつゆ・だしを加えてフライパンで器用にだし巻き卵を作り、皿に移す。それらを冷ましている間に朝食を食べる事にした。 最近千尋の朝は和食からパンに切り替わっていた。新しく商店街にコーヒーショップがオープンし、そこで挽いてもらったコーヒーを毎朝ドリップして飲むのが習慣となっていた。その為に朝食は自然とパンを食べるようになったのである。千尋が特に好きなコーヒーはコロンビア。甘い香りとコクが特に気に入っている。トーストにサラダ・コーヒーと簡単な朝食を食べ終わると、お弁当を詰めた。 「さて、そろそろ行こうかな」千尋は時計を見ると立ち上がった。戸締りを確認し、玄関のカギを閉めると千尋は出勤した。 千尋が去った後をじっと見つめている人物がいた。昨夜千尋の家を見つめていた青年だ。「……ごめん、千尋」青年は呟くと、千尋の家の門を開けて中へと入った——****「それじゃ、配達行ってきますねー」荷物を抱えた千尋が中島に声をかけた。「はい、気を付けて行ってきてね」中島に見送られ、千尋は軽トラックに乗ると出発した。今日は千尋の外回りの日である。届け先は全部で10か所。12月にもなると注文が増えて件数が多いので時間が結構かかってしまう。その為、今日はお弁当持参で外回りをすることになった。「え……と、最初のお客様は……」千尋はお届け先住所をナビに打ち込んだ。「よし、それじゃ行こう」ルートが設定すると千尋はアクセルを踏んで車を走らせた——**** 千尋が全ての配達を終えて店に戻ってきたのは16時を過ぎていた。「ただいま戻りました」「お疲れ様、千尋ちゃん」出迎えてくれたのは花の手入れをしていた渡辺だった。 「お店、混みませんでしたか?」「うん、忙しかったけど大丈夫だったわよ。店長も原君もいたしね。それよりも、千尋ちゃんがいない時に男の人が訪ねてきたわよ」「男の人? 私にですか?」そこへ接客を終えて中島がやってきた。「すっごく格好いい若い男性だったわよ~。いつの間に彼氏なんて作ってたの?」「え? ちょっ、ちょっと待って下さい。私彼氏なんていませ
17時半—― 里中は近藤と居酒屋に来ていた。「ほら、お前との約束通り今夜は俺が奢ってやるから好きなだけ飲め!」近藤は機嫌良さそうに言った。「それじゃ、俺遠慮なく飲ませてもらいますからね。あ、つまみも勿論先輩が奢ってくれるんですよね?」「ああ、いいぞ。遠慮するな」「はい、それじゃ……」里中はメニューにざっと目を通すと手を挙げて大きな声で店員を呼んだ。「すみませーん!! 注文いいですか?」「はい、お待たせしました」学生バイトと思わしき男性がオーダーを取るハンディーを持ってテーブルにやってきた。「え~と……まずはジョッキで生ビール。あと鶏のから揚げと揚げ出し豆腐に枝豆。揚げ餃子にジャガバター、焼きおにぎりをお願いします」オーダーを受けた店員が去った後、近藤がきた。きた。「おい……お前そんなに頼んで食べきれるのか?」「食べれなきゃ注文なんてしませんよ」「いや、それにしても……そんな身体の何処にあれだけの量が食えるんだ?」里中は細身の体で、ジム通いしているので引き締まった身体をしている。「好きなだけ注文していいって言ったのは先輩じゃないですか」「いや、確かにそうなんだけどさあ……」「先輩は何も食べないんですか?」「え!? お前、あれ一人で食う気だったのかよ? てっきり俺とお前の2人分だと思っていたぞ?」「俺はそれでも構わないですけど? でも先輩、俺が頼んだメニューでもいいんですか?」「ああ、俺は好き嫌い無いからな。でも酒は注文するぞ」そして手を上げると近藤は店員を呼んだ。「生ビールグラスで」店員が去ると、里中は尋ねた。「……先輩」「うん?」「もしかして、アルコール苦手ですか?」「ハッハッハッ……何を言い出すんだ? 俺はアルコールは得意だ!」それから約1時間後—―「確かに俺の彼女は可愛くていい子なんだけどさ~。ちょっとだけ贅沢な所があるんだよ。デートの時お金出すのはいっつも俺だし……まあ、それはアレだな。男の方が金を出すのは当然かな? とは思ってるよ。でも毎回高級な店で食事したがるのはどうかと思わないか? ……あ、彼女のいないお前に聞いても分からないか……」たった1杯の生ビールで近藤はすっかり酔っぱらってしまい、顔を赤くしてブツブツと愚痴ばかり言っている。「からみ酒かよ……。あーもう面倒だなあ。確かに今の俺に
「あの……」千尋が近づいて声をかけると青年は弾かれたように振り返り、目を大きく見開いた。自分を見た時の男の表情の変化に気付きながらも千尋は話しかけた。「ひょっとしてこのお店で働く原さんのお友達ですか? もうすぐ原さん、出てくると思いますけど、呼んできましょうか?」青年は黙って千尋を見つめていたが、やがて徐々にその顔には笑みが浮かんできた。「あの、どうされましたか?」「会えた……」青年の口が開いた。「え?」「やっと、君に会うことができた。……千尋」まるで子供のように、ニッコリ笑う。「どう……して私の名前を知ってるんですか?」「僕の名前は渚……間宮渚」「間宮……渚……?」千尋は名前を口にして渚の顔を見上げた——****「ほら! 先輩、しっかり歩いてくださいよ!」里中はすっかり酔い潰れてしまった近藤に肩を貸して夜の街を歩いていた。「う~ん……もう飲めない……」むにゃむにゃと呟き、殆ど眠っている状態の成人男性に肩を貸すのは容易ではない。「全く! たかだかあの程度の酒で酔うなんて信じられないぜ」ぶちぶちと文句を言う里中。結局あの後ビールで気分が良くなったのか、里中が止めるのも聞かずに近藤は日本酒やらハイボール等を飲んでしまい、完全に潰れてしまったのである。そこで里中は悪いとは思ったが近藤の上着をあさり、財布を見つけると会計をしてしまった。「勝手に支払いしてすみません」里中はレシートの裏にメモを書くと近藤の財布に戻し、カウンターで酔いつぶれている近藤の肩を揺さぶった。「ほら、先輩。帰りますよ」「んあ?」近藤は頭を上げた。「しっかりして下さい、帰りますよ。ほら、立てますか?」近藤の腕を掴んで立ち上がらせた。「うん、うん。俺は大丈夫だ。1人でお家に帰れるのだー!」店内に酔っぱらった近藤の声が響き渡る。一緒にいる里中は恥ずかしくてたまったものではない。「分かりましたから、そんな大声で喚かないで下さい。ちゃんと聞いてますから」「うん、うん、さすが俺の後輩。聞き訳がよろしくて結構である!」赤ら顔でうなずく近藤を見て、4里中はもう二度とこの男とは一緒に酒を飲むのはやめようと心に決めたのであった。 近藤の肩を貸して歩きながら居酒屋での恥ずかしい顛末を思い出し、里中は頭を振り、記憶から追い払おうとした。「俺1人じゃ先輩
「あの、間宮さん……?でしたっけ?」「渚でいいよ。千尋」相変わらずニコニコと笑って青年は千尋を見つめている。「あなたは私を知ってるんですか?」以前のストーカー事件のこともあるので慎重に尋ねた。「うん、千尋のことはよく知ってるよ。ねえ、まだ夜ご飯食べてないよね? 僕どうしても君と一緒に行きたいお店があるんだ。話はご飯の後でもいいでしょう?」年齢の割にあどけない話し方をする渚を見て、千尋は少し警戒心を解いた。それに人混みの中で話をする方が身の安全を図れる。「そうですね。では行きましょう」千尋は頷いた——**** 2人の様子を里中は物陰から盗み見ていた。「あの男、誰だ? 2人の間に微妙な距離感を感じるから彼氏っていう感じでも無さそうだし……。あ! 何処かへ行くみたいだ」里中はの後をつけようとして、足を止めた。「何やってるんだ、俺。これじゃストーカーしてた長井と同類じゃないか……。やめた、帰ろう」里中は踵を返すと2人とは反対に背を向けて帰って行った。酔いはとっくに冷めてしまっていた。(くそっ……面白くない)むしゃくしゃする気持ちで、里中は人混みに消えて行った――**** 渚は鼻歌を歌いながら千尋の前を歩き、時折千尋の方を振り向いては笑顔で笑いかけてくる。(何だかすごく人懐こい男の人だな……)程なく歩くと渚は足を止めた。「ほら、ここだよ」そこは昔ながらの洋食亭だったが……。「あ、ここは……」千尋は思わず声に出していた。この洋食亭は生前、祖父と何度も一緒に食事をしに来ていた店であった。けれども祖父が亡くなってからは一度も千尋はこの店を訪れることは無かった。「ほら、千尋。早く入ろう」渚は促すとドアを開けて千尋を先に中へ入れる。テーブルに着くと渚はメニューを千尋に手渡してきた。「ねえ、千尋はいつも何を食べてたの?」「え……と、私は大体いつもオムライスを注文していました」「そっかー。じゃあ僕はそれにしよう! 千尋が食べてた味がどんなのか知っておきたいからね。千尋は何にするの?」「それじゃ、私はビーフシチューで」「うん、それもとっても美味しそうだね。じゃ注文しよう。すみませーん」渚は手を挙げて大声で声をかけると女性店員がやってきた。「ご注文はお決まりですか?」「オムライスとビーフシチューをお願いします」渚が注文をし
「僕もね、千尋と同じでお爺ちゃんに育てられたんだ」「え?」「でも、もう高校を卒業する前に死んじゃってるんだけどね」千尋は黙って話を聞いている。「その後は千尋のお爺さんが僕のこと、色々気にかけてくれたよ。すごく感謝してる。でもある時突然連絡が取れなくなったから今日、会いにきてみたんだよ。……でも亡くなっていたんだね。近所の人に聞いたよ」「そうだったの……」その時。「お待たせいたしました」二人の間に料理が運ばれてきた。「うわあ、美味しそう! 食べよう、千尋」「う、うん」「いただきます」渚は手を合わせた。「あ、渚君も御飯食べる時手を合わせるの?」「うん。まあね」「そっか、私と同じだね」千尋も手を合わせていただきますと言うと料理を口に運んだ。その様子を渚はじっと見つめている。「な、何?」「夢みたいだなって思って」「何が?」「千尋と向かい合って食事することが出来る日が来るなんて夢みたいに幸せだな~」「!」千尋は思わずむせそうになった。「大丈夫? 千尋。ほら、お水飲んで」渚は慌てて水の入ったコップを差し出した。「い、いきなり何言うの?」千尋は水を飲みこんだ。「え? 何が?」渚はポカンとしている。「だから、私と食事するのが夢みたいに幸せだって言ったこと」「うん。だって本当のことだから。思いは口に出さなくちゃ伝わらないでしょ?」純粋な目で見つめられると千尋はもう二の句が継げなくなってしまった。「もう、渚君も食べて。料理冷めちゃうよ」「そうだね。僕も食べよっと」おいしい、おいしいと笑顔で言いながら料理を口にする渚はまるで子供の様に思えたが、渚といると何だか心地よく感じた。(どうしてなんだろう? 今日初めて会った人なのに……)****「ふぅ~美味しかったね」食事が終わると渚は満足そうに言った。「うん、そうだね。……やっぱり誰かと一緒の食事っていつもより美味しく感じるかもね」千尋の言葉に渚は目を輝かせた。「そうだよね!? 千尋も僕と一緒に食事して美味しいって思ってくれてるんだね」「う、うん」「今日、千尋の家に行ったあと、働いている花屋に行ったんだよ」渚は急に話を変えた。「うん。お店の人から聞いた」「前に悪い男に付きまとわれて怖い思いしたんだよね」「その話も聞いたの?」「勿論。ねえ、千尋にお願
2人が家に着いたのは21時半を過ぎていた。「渚君、どうぞ」「お邪魔します」渚は遠慮がちに上がってきた。「ここ、お爺ちゃんの使っていた部屋なの。今夜からこの部屋を使って」千尋は部屋に案内した。「寒いね~。今エアコンつけるね」リモコンで電源を入れ、風呂を沸かしに行って部屋に戻ると渚が雨戸の戸締りをしてくれていた。「ありがとう、渚君」「これから居候させてもらうんだから、何でも手伝うからね。明日から僕が料理をするよ」「え? 料理出来るの?」「うん、調理師免許も持ってるよ。僕はカフェの店員だったんだ」渚があげた店の名前は料理も提供する有名なチェーン店だった。「そうだったの、あの店の料理凄くおいしよね~」「うん、でも今日あの店で食べた料理も美味しかったよ。また一緒に行こうよ」「そうだね、また今度行こうか?」その時。「あのね、千尋……」「何?」「しばらくの間、千尋が仕事に行く時に僕も付いて行っていいかな?」「え? 別に私は構わないけど……何故?」「千尋に何かあったら大変だからね。僕が側に居る限り、絶対に千尋を危険な目に遭わせたくないからだよ」「ちょっと大袈裟じゃない? もうあれから怖い思いしてないけど?」「……そんなの分からないじゃないか」急に渚は真剣な表情になる。その瞳は微かに揺れているように見えた。「渚君。どうしたの?」「千尋のお爺さんとも約束してたんだ。もし僕が千尋と会う事になったら絶対に守ってあげてくれって」「え? お爺ちゃんから?」まさか祖父が渚とそのような約束を交わしているなんて意外であった。「そう、だから僕の気の済むようにさせて?」渚は笑みを浮かべた……。**** お風呂が沸くと、千尋はタオルとバスタオルを出してきて渚に渡した。「渚君、着替えはあるの?」「うん、勿論。このリュックに入れてきたよ。あ……でもパジャマを持って来るのを忘れてきちゃったなあ」「それなら、お爺ちゃんの浴衣が残ってるから貸してあげる。浴衣ならサイズ大丈夫だと思うから」千尋は祖父の衣装ケースから浴衣を探しだすと持ってきた。「はい、これを着てね」「あ……この浴衣……」渚は浴衣を受け取ると目を細める。「この浴衣がどうかしたの?」「い、いや。この浴衣僕のお爺ちゃんが着ていた浴衣によく似てたからちょっと驚いただけだよ」
朝日がカーテンの隙間から千尋の顔を照らした。「う……ん眩し……」まだぼんやりした頭で目覚まし時計を見ると6時半を差している。「え? 目覚まし鳴らなかったのかな?」今日は千尋の早番の日。この時間ならまだお弁当を作る余裕がありそうだ。慌てて着替え、台所に向かうと味噌汁の良い香りがしていた。台所を覗くと渚が料理を作っている最中で千尋の気配に気が付き振り向くと、笑顔で挨拶してきた。「おはよう、千尋」「! 渚君……。まさか、朝ご飯作ってくれてたの?」「朝ご飯だけじゃないよ。ちゃんとお弁当も用意したからね。中身は内緒。開けてからのお楽しみだよ」テーブルの上にはランチバックに入ったお弁当が置かれている。「あ、ありがとう……」お弁当を作って貰ったことが嬉しくて千尋は顔を綻ばせた。「よし、準備出来た。さ、千尋座って」渚は千尋の為に椅子を引いた。「それじゃ……」千尋が遠慮がちに座ると、渚は木目のお盆に乗せた料理をテーブルに運んで来た。豆腐とわかめの味噌汁に焼き鮭、だし巻き玉子、おひたしに漬物にご飯。これ等がセンス良く盛り付けられている。千尋は驚嘆の声をあげた。「ごめん、千尋。勝手に冷蔵庫の中身使ってしまったけど、足りない食材は今日僕が買って来るからね」 「うううん、そんなこと気にしないで。と言うか、かえって悪いよ。こんなに素敵な朝御飯用してもらって。それにお弁当も作ってくれるなんて」「だって僕が千尋に喜んで貰いたくて勝手にやったことなんだから気にしないでよ。でも、嬉しいな。千尋の笑顔が見れて」相変わらず笑顔を向けてくる渚に、千尋はどう対応して良いか分からず困ってしまった。「た、食べましょ。渚君も一緒に」2人で向かい合わせに座ると手を合わせた。「「いただきます」」渚の作った料理はどれも絶品だった。味噌汁とだし巻き玉子は出汁からわざわざ作ったようで良い香りがする。おひたしも丁度良い味加減だった。「美味しい! 本当に料理上手だったんだね」「ありがとう、ここに居候させて貰ってる間は僕が料理を作るからね」「そんな、それじゃ悪いわ」「僕が千尋の為に作ってあげたいんだ。駄目かな?」切なそうに見つめられると、もうこれ以上千尋は断ることが出来なくなってしまった。「え~と、それじゃこれからお願いします」「勿論、任せて!」パアッと明るい笑顔
渚が後片付けをしている最中に千尋は昨夜洗っておいた洗濯物を日当たりの良い和室に干していた。「渚君がいるから洗濯物外に干しておいてもいいかなあ?」干し終えて、ポツリと呟いた時。「うん、大丈夫。洗濯物乾いたら僕が取り入れておくから外に干しなよ」「え!? い、いたの?」いつの間にか片付けを終えた渚が千尋の近くにいた。「うん、今来たところだよ。ごめん、驚かせちゃったかな?」「ううん、大丈夫だよ。それじゃ、お願いしていい?」「うん。ついでに畳んでおくよ」「それは大丈夫だから!」そこだけ千尋は強調した。若い男性に自分の下着まで畳ませるわけにはいかない。「? 遠慮しなくていいのに……」渚は不思議そうな顔を浮かべると部屋から出て行った。(渚君て、時々まだ子供の様な言動するよね……不思議な人)千尋は渚の後姿を見ながら思った——****「ねえ、渚君。本当にお店まで付いて来るの?」並んで歩きながら千尋は渚を見上げた。「勿論、昨日お店の人達にきちんと挨拶出来なかったからね」渚はどこか嬉しそうにしている。その時、2人の前にを白い犬を連れた年配の男性が現れ、千尋の足が止まった。千尋はじ~っと犬を見つめている。「千尋?」渚が声をかけた。「ヤマト……」「どうかしたの? 千尋?」千尋の目は前方の犬を捕らえている。「あの犬がどうかした?」「あ、ごめんね。私、つい白い犬を見ると……。前に飼っていた犬のこと思い出しちゃって。私ね、前に白い大きな犬を飼ってたの。ヤマトって名前だった。お爺ちゃんが亡くなった後もずっとヤマトは側に居てくれたんだけど……。でも2か月前にストーカーが家に侵入してきた時にヤマトが犯人を追い払って、そのまま後を追いかけて行ったきり姿を消してしまったの」そして千尋は目を伏せた。「千尋……」「今、何処にいるんだろう。寒い思いしていないかな、どうして戻ってきてくれないんだろうって思うと、私……」最後の方は消え入りそうな声だった。「千尋はまだ、その犬のことが忘れられないんだね」しんみりとした声で渚が尋ねる。「1日たりとも忘れたことなんか無いよ。だって大切な家族だったんだから」「……きっとヤマトは世界一幸せな犬だったと思うよ。こんなに千尋に思われてるんだから」渚はまるで何処か痛むかのように切なそうに笑った。「え……?」
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても
「ち、千尋さん!」「はい?」突然大きな声で名前を呼ばれて千尋は返事をした。「あの、来週のクリスマスイブ、何してますか!?」「え……と? 普通に仕事ですけど?」「そ、そうですよね。お花屋さんなんて1年でも最も忙しい日かもしれませんよね。ハハハ」「里中さんも仕事ですか?」「はい……。しかもあの鬼のような先輩に遅番のシフト無理やり交代させられたんですよ。どうせ何も予定が無いから別にいいんですけどね……」「私も遅番なんですよ。でも仕事が終わったら<フロリナ>の人達とお店でクリスマスパーティー開くことになってるんです。もしよければお店にいらっしゃいますか?」「え! それ本当ですか!?」「はい、あ……でもパーティーと言っても大したこと出来ませんよ? 仕事の終わった後なので料理の準備が出来ないからデリバリーのピザや買って来たチキン……それにクリスマスケーキといった簡素なものなんですけど。毎年クリスマスはこんな感じで過ごしてるんです。それに今年は渚君も来るし、里中さんも、もしよければ……」「行く! 絶対に行くっす!」本当は二人きりで過ごしたいところだが、一人寂しくイブを過ごすよりも大勢でパーティーで盛り上がった方が数倍楽しい。しかも千尋がいれば尚更だ。「それじゃ、<フロリナ>の人達にも話しておきますね」千尋はにっこり笑った。(くう~! 神様! 生きててよかった! 先輩、感謝します!)ついでに前方を歩く近藤に感謝する里中であった。 近藤が連れて来たラーメン屋は豚骨スープのラーメンとあっさりした魚介で出汁をとった魚介スープの2種類を扱ったラーメン屋であった。麺は太く縮れてスープによく馴染む。「美味しい!」千尋はラーメンを一口食べて感嘆の声をあげた。千尋の食べているラーメンは塩の魚介スープ味だ。「千尋、これも美味しいよ。このトッピングの味卵もいいね」渚が食べているのは魚介スープの味噌味。一方、里中と近藤が食べているのはこってり豚骨スープの味噌ラーメンである。「あ~あ……結局こうなるのか……」里中は千尋と渚が並んで座って楽しそうに食べているのを横目でチラリと見て言った。あいにく店が混雑していてカウンター席で二人一組で別れて座る事になってしまったのである。「何だよ、折角人が気を利かせて千尋ちゃんと喋れる場を用意してやった俺にそんな口聞いて
近藤は手を振りながら千尋と渚の前に姿を現した。「あ、近藤さん。こんばんは」千尋が頭を下げた。「あれ? どうしたんですか? ん? 後ろのいるのは里中さんですか?」渚は近藤の後ろに隠れるように立っていた里中に気が付いた。「こ、こんばんは……」渋々里中は千尋と渚の前に姿を見せた。「凄い偶然だな~。俺達飯でも食べようかって一緒に駅まで来たんだよ。そしたら間宮君が千尋ちゃんと一緒の所を見かけて声かけたんだよ、な? 里中」近藤はその場で考えた嘘をペラペラと喋った。「あ、う、うん。実はそうなんだよ」仕方ないので里中も話を合わせる。「ふ~ん、やっぱりお二人ってすごく仲がいいんですね」千尋が近藤と里中を交互に見ると、渚が教えた。「うん。近藤さんと里中さんは大体いつもお昼ごはんを一緒に食べに来るんだよ」「なあ、どうせなら皆でこれから飯食べに行かないか? 俺美味いラーメン屋知ってるんだ? 千尋ちゃんはラーメン食べるかい?」近藤が尋ねる。「そうですね……。私はラーメン好きだけど、渚君は食べる?」「うん、千尋が食べるなら僕も食べるよ」二人が顔を合わせて話すのを里中は暗い気持ちで見ていた。その様子に気が付いたのか、近藤が明るい声を出した。「よおし! それじゃ皆で行こうか。間宮君、実は俺前から君と話がしたかったんだよね~」近藤が渚の隣に並んで話しかけてきた。「え、何ですか? 話って」「まあ、歩きながら話そうぜ」そして強引に渚を連れて先頭を歩き出した。後ろを振り返った時、近藤は里中に目配せした。(頑張れよ)そう応援しているかのように見えた。(先輩……俺の為に?)里中は近藤に勇気づけられて千尋に向き直った。「俺達も行きましょう、千尋さん」「そうですね。行きましょうか?」(どうする? でも一体何を話せば良い?)本当は話したいことは沢山あった。けれどもいざ千尋を前にすると緊張の為か何を話せば良いか分からない。でも黙ってるのも気まずい。「あ、あの千尋さん」里中は思い切って口を開いた。「はい?」「千尋さんはラーメンは何派ですか? 俺の中ではやっぱりラーメンと言えば豚骨味噌味が一番ですよ」「そうですね。私だったら、あっさりした醤油ラーメンかな?」「あー醤油もいいっすね~。特に刻み葱がたっぷり乗って大きなチャーシューがトッピングされてい
夜の公園で話をした後、里中は仕事の合間に渚を注意深く観察することにした。理由は渚のあの時の言葉の真意を測る為である。自分に残された時間は少ない等と意味深なことを言われては気になるのも無理はなかった。なので自分と帰る時間が重なる時は待ち伏せして様子を見ることにしたのである。今日がその第1日目であった。 通用口で渚が出てくるのを見張っていたその時。「何だよ、里中。お前探偵にでもなったつもりか?」近藤が後ろから肩をポンと叩いてきた。「うわあああっ!」里中は驚いて大声を出してしまった。「先輩! 脅かすのはやめてくださいよ! 心臓に悪い!」「な、何言ってるんだよ。あんな大きな声で叫ばれたこっちの方がおどろいたじゃないか」余程驚いたのか、近藤は胸を押さえている。「ところで、お前まだ千尋ちゃんの男を見張ってるのか?」「まだ千尋さんの男と決まったわけないじゃないです」「お前なあ、若い男女が二人きりで一つ屋根の下に暮らしてるんだぞ? 本当に何も無いと思ってるのか?」「言わないで下さいよ! 想像もしたくない!」里中は両耳を押さえる。「俺は今、間宮の動向を探るので忙しいんですから」再び里中は通用出口に目を移した。「お前、本当に暇人だなあ。なあ、そんなのやめて今から俺と飲みに行こうぜ?」「嫌ですよ。先輩酒に弱いじゃないですか。もう先輩のおもりするのはごめんです。あ! 出て来た」里中は現れた渚に注目した。「先輩、俺はあいつの後をつけるんで失礼します」「ふ~ん。俺もついてこうかな? どうせ今夜は暇だし」「駄目です、ついてこないで下さい」「それじゃ、なぜ間宮君を見張ってるのか教えてくれたら、ついてくのやめてやるよ」「それは……」「あ~っ! そんな事より見失うぞ!」近藤に言われて、慌てて里中は後を追った。当然のように近藤もついてくる。「なあ、こんなことして意味あるのか?」「先輩、文句があるならついてこないで下さいよ」渚はバス停で止まった。「あ、バスに乗るみたいだな? どうする? 俺達も乗るのか?」「勿論、乗りますよ」バス停には20人前後の人々が待っていた。里中と近藤は前方に並んでいる渚よりも10人程後ろで並んだ。やがてバスがやって来ると列に並んでいた人々がぞろぞろ乗り込んだ。渚も乗ったので、里中と近藤も後に続く。バスに揺られな
退勤後――里中は寒空の下、職員通用出口で渚が出てくるのを待ち伏せしていた。こんな事をしていても無意味なことは分かっていたが、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。暫く待っていると渚が出て来た。「おい、お前!」里中は渚の前に立ちふさがる。「……少し、時間くれるか?」「あれ? えっと、君はさっきの……?」渚は首を傾げた―― 二人は人気の無い公園に来ていた。里中は口火を切った。「俺はリハビリステーションスタッフの里中だ」「うん、そうだったね。ところで僕に何か用なのかな? 悪いけど、千尋が家で待ってるからあまり時間はとれないんだ」何気なく言った渚の言葉は里中の神経を逆なでした。里中はグッと両手を握りしめると言った。「やっぱり、二人は一緒に暮らしてるのか?」「そうだよ。今は一緒に暮らしてる。僕が料理担当で千尋は掃除と洗濯担当だよ。千尋はね、すごく僕の料理を褒めてくれるんだ。だからもっともっと美味し料理を作って千尋を喜ばせたいと思ってるよ」当然その話に増々里中のいら立ちは募る。「俺………お前よりもずっと前から千尋さんの事が好きだった。俺だって、彼女のこと喜ばせたいよ。くっそ、俺の方が早く出会っていたのに……」「君も千尋のこと好きだったんだ。僕も千尋のことが大好きだよ。一緒だね?」渚はさらりと笑顔で言う。「お前なあ、自分で何言ってるか分かっているのか?」「うん、良く分かっているつもりだけど?」「く……」里中は唇を噛んだ。(何だ? こいつの思考回路は少しおかしくないか?)「もう帰っていいかな? 千尋が家で待ってるから」渚は踵を返した。「お、おい! 待てよ! まだ話は終わってないぞ!」里中が渚を引き留めようとすると、渚の足がピタリと止まった。「……悪いけど、あまり待てないんだ」渚の口調が突然変わった。「え?」振り向いた渚の顔からは表情が消えていた。「僕には、君と違って時間が無いんだ。だから、少しでも長く千尋の側にいたい」「え? お前一体何を言ってるんだ?」「僕にとっては君の方が羨ましいよ。だって……僕にはあまり彼女と一緒にいられる時間が残されていなんだから……」月明かりを背に、渚の瞳は涙で濡れているように見えた。「! お前、何言って……」「それじゃ、里中君。また明日ね」次の瞬間渚の顔からは悲しみの表情が
「千尋ちゃん、今日も渚君の手作り弁当なの?」千尋と一緒にお昼休憩をとっている渡辺が声をかけた。「はい。渚君、自分の分はいらないのに、わざわざ私の分だけ作ってくれたんです」「あらま、自分の分はいらないってどういうこと?」「レストランで働いている人たちには、まかないがあるそうなんですよ」「へえ~羨ましいわね。ところで、今日は渚君迎えに来てくれるの?」「今日は私の方が帰りが早いので買い物して先に家に帰るつもりです」 「それじゃ、今夜の夕食当番は千尋ちゃんなの?」「はい、最初は渚君食事は全部自分で作るって言ってたんですけど、どちらか早く家に帰れた方が食事を作るってことに決めたんです」「ふふふふ……」渡辺が意味深に笑う。「な、何ですか?」「もう完全にのろけね、それは。いや~千尋ちゃん、愛されてるわ~」「そんなんじゃ、無いですよ! 私と渚君の間には何もありませんってば」千尋は顔を赤らめて抗議した。「そうかなあ~。誰の目から見ても、少なくとも渚君は千尋ちゃんに好意を抱いてるわよ? それとも千尋ちゃんは渚君に好かれると迷惑なの?」「そんな、迷惑だなんて思ったこと無いです」「嫌いじゃないんでしょ? 渚君のこと」「もちろんです」「だったら何も問題無いじゃない? 渚君に思われて悪い気はしないんでしょ?」千尋は頷いた。むしろ渚に好意を寄せられるのは嬉しい。けれど、渚は時々どこか遠い目をする時がある。近くにいるのに二人の距離は離れているように感じる時もある。後で自分が傷つくのでは無いかと思い、千尋はどうしても渚には深入りすることが出来なかった――**** 食事を終えて里中と近藤は職場に戻りながら話をしている。「それにしても驚いたな。まさかこんな場所で偶然会うなんて」「……はい」里中は神妙な顔で頷いた。「まあ、ライバルが同じ病院内で働いているのはお前にとってはあまり穏やかな気持ちにはなれないかもなあ?」近藤はニヤニヤしている。「先輩、面白がってませんか?」「そもそも、お前がもっと早く千尋ちゃんに告っていれば、間宮君と一緒に暮らすことにはならなかったんじゃないかな……っとやべっ!」近藤は慌てて口を押えたが手遅れだった。「先輩……」里中の瞳が鋭さを帯びた。「ヒッ!」近藤は小さく悲鳴をあげる。「一緒に暮らしてる……? 一体ど
「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来
「う、うん……。別にいいよ?」千尋が手を伸ばすと渚はそっと握った。渚の手は大きく、千尋の小さな手はすっぽり覆われてしまう。(うわあ。大きい手、やっぱり男の人なんだなあ)渚を見上げると、耳を赤く染めている。「何だか……ちょと照れちゃうね」渚が顔を赤らめながら言うので千尋も何だか気恥ずかしくなってしまった。「そ、そう? それじゃやめる?」すると渚は千尋の手をギュっと握りしめた。「やめたくない、こうしていたい」何だか子供みたいにむきになっているようにも見える。千尋はそんな様子がおかしくて微笑んだ。**** それから二人は手を繋いで街を散策した。 本屋さんでは一緒に料理の本を探したり、未だにパジャマを持っていなかった渚の為にパジャマを選んだり、雑貨屋さんではお揃いのマグカップや食器を買ったりした。 お昼は最近テレビや雑誌でも取り上げられているアジアンテイストなカフェで渚が選んだ店だった。混雑時間を避けて行ったので、幸いにもすぐに店に入ることが出来た。この店はカフェであるが、ランチメニューには和食を提供すると言うことで話題を呼んでいる。 「渚君、いつの間にこんなお店見つけたの?」席に着くと早速千尋は尋ねた。「実はさっき、本屋に行ったときにこのお店が雑誌で紹介されていたんよ。今日の朝ご飯はトーストだったからお昼は和食がいいかなと思ってこの店を選んだんだ」渚と千尋は二人で<本日のおすすめ>を選んだ。木のお盆に乗せて運ばれてきたのは、玄米ご飯に豚汁、大根おろしの付いたホッケの焼き魚におひたしである。「うわあ……美味しそう。玄米ご飯なんて素敵」「そうだね、この店に決めて良かったよ」味は文句なしに絶品だった。渚は特に豚汁が気に入ったようで、どんな具材が入っているのかメモした程である。 食事を終えた後は、駅の構内にあるカフェに入り、二人でコーヒーとケーキセットを食べ……気が付くと時刻は17時を過ぎていた。「渚君、そろそろ帰ろうか?」千尋は椅子から立ち上がって声をかけた。「うん……そうだね」電車の中で、今夜のメニューは何にするか話し合った結果、家でパスタを作って食べることに決めた。「私が今夜は作るね。何味のパスタがいい?」「僕は千尋が作ってくれるならどんな味だっていいよ」「それじゃ、クリームパスタにしようかな? 材料買いたいか